無意識に孤独を

パブリックドメインなものの一部をひっぱって、孤独にすると個と意識ができると思う。生きることはそのまま、個をとぎすまして、孤独をつよくしていくことだと思う。死ぬときにはそれはまたパブリックドメインに還る。孤独のみが、生きているものに所有を許されている唯一のもので、引き換え不可能な命そのものであると感じる。

生まれて、死ぬまでに、一切の (人間が考えるような) 意味はないと思う。死にたいことは無への衝動というよりも、全体的なものへの回帰で、もっと直接的に、情報として捉えたら自然に還ることっていう、あたりまえの衝動な感じがする。生の衝動は、それでは飽きるから、孤独を作って、つよくするゲームをする、人間ごっこ、そのもの。だから、人間ごっこをやめるなら、死ぬ以外にない。あたりまえだ。


無意識に、継続に今の値を渡し続けている。与える値を変えることがどこかでできるはずだ。内なる世界が、今外側に見えるものと同じならば、行為全てが、他との干渉を「見える」ように持ちながら、自分の望む方向に傾いていくのは、当然のはずだ。意識的なものは、物理的なものと全く別なところにあるわけじゃなくて、単にそこにあるようだ。